「業」を物理的に背負いたかった


学生の本分を忘れました


突然だが、最近「文字や表現を具現化すること」にハマっている。大学で3Dプリンターを触っているうちに、その素材の色や性質に感化され、やたらいろいろなものを作ってニヤニヤしては人に見せつけていた。

3Dプリンタで作った「やわらかい態度」

これを見て面白がった友人からの「みんなでやってみよう!」という提案を受け、他の人と一緒に文字をもじるイベントも開催させてもらった。老若男女が入り乱れて冗談を実現する感じはヒジョーに頭が悪く、楽しくてしかたがない。

「喧嘩を買う」(ファブラボ仙台 伊澤さん)

「知恵を絞る」(ファブラボ太宰府 今岡さん)

そしてまた突然だが、僕は今大学院の修士課程2年生だ。学部を4年間かけて卒業し、それでもまだ研究のために大学に居続けている立場である。研究自体もたいへん意義あることなのだが、最近は文字を作っているほうが楽しくなってしまいつつある。

振り返ってみれば、今の僕の暮らしは大学の設備や両親の支援によって成り立っている。なのに、勉強という学生の本分を忘れかけているのは、なんだか申し訳ない気分がしてきた。大義からそれた僕は、もはや業を背負ってしまったのかもしれない。そう、深い「業」を。

「業」を背負おう


文字を膨らませたり伸ばしたりするのは楽しい

ということで、ちゃんと「業」を背負うことにした。要は「業」の形をしたリュックサックを作ろうということである。とはいえ裁縫は不慣れなので、旅先で知り合いの力を借りながら作ることにした。

福岡県の「都府楼駅」は看板のテイストがかっこいい

ファブラボ大宰府の中澤さんは大学の先輩でもある

ちょうど福岡に行く用事があったので、空き時間に太宰府にあるファブラボを訪れた。ファブラボとは、3Dプリンタやデジタル工作機械を備えた施設のこと。ものづくり版の図書館や喫茶店みたいなものだと考えてくれればよい。

そんなものづくりに特化したスペースなので、業を作るための機械や素材はバッチリなわけである。とりあえずは試作で薄い布をレーザーカッターでカットし、ミシンで縫い合わせてみた。

レーザーカッターゆえのパーフェクトな直線が嬉しい。

それを僕のミシンさばきが台無しにして…

海洋生物のような「業」を背負わせてしまった

文字のデザインの甘さ、そして僕の無残なミシンさばきによって、やたらふにゃふにゃした生き物っぽい「業」が生まれてしまった。とりあえずの実験として不完全なリュックを試してもらうときには、まさに「業」を背負わせるような申し訳なさが去来した。

「業」はそこには留まらない


その後、素材やデザインの修正、ミシンさばきの修練によってなんとか完成した「業」がこちら。


うん、やや突っ張っている感はあるがきちんと「業」に見える。だが、思ったよりも心にずっしり来るものはない。もっと精神的な重みを感じるため、自分の人生に即した「業」をリュックの中に詰め込んでいこう。


僕の人生の暗黒期のひとつは、間違いなく予備校時代である。中高一貫校で遊びほうけ、センター試験の前日まで卒業アルバムの編集(主には服を脱ぎたがる友人たちの写真にモザイクをかけること)をしていたので、当然学力は悲しい。さらに、友達は一切できず、チューターと呼ばれる職員さんとしかまともな会話はしなかった。


勉強もできないし友達もいなかったので、当然行く気にはなれず、働きに出る両親の目を盗んで家で過ごしていた時期もある。申し訳なさの極みである。こんな哀しい時期の象徴として、大学合格発表後に撮影した記念写真を回収しに行こうと計画したのである。

あの記念写真では、他のみんなが仲間たちと楽しそうに映っている一方、僕はチューターさんとふたりで哀しい笑顔を浮かべていたはずだ。あれがほしい。あれこそが「業」に重みを与えるものだ。そう思い、いやいやながらも足を運んでいた場所に向かう。

この上に予備校があったはずなのだ

が、思い出の場所に行く道は閉ざされていた。調べてみると、校舎はリニューアルして別の場所に移転していた。そんなことも知らないほどの関係性なのか、と軽いジャブを食らいながら移転先へ歩く。


きれいになった校舎の中には、大きな受付と発券機のようなものが見えた。唯一面識のあったチューターさんは異動してしまったと聞いているし、なじみの先生なんてのもいない。それでも、一緒に学んだ友達でもいれば気軽に入ることができたかもしれないが、ひとりの身では足を進めることができなかった。そうか、ここにもう僕とのつながりはないのか。

かなしいね

「業」と行く旅


そんなこんなで、結局自分だけの「業」を詰め込むことはできなかった。しかし、せっかく背負えるようにしたのだから、色々なところに連れまわしてみることにした。


学会発表でアメリカに行った時のベッドで、僕の帰りを待つ「業」

僕と2人で行ったオレゴン動物園でサケに囲まれる「業」

「業」と「GOAT(やぎ)」

連れまわしてみて感じたのは、そこに「業」があることを考えるだけでも、自分の行為が「業」なのかどうかを意識せざるを得ないということである。学会のプレゼン資料もできていないのに先生にステーキをごちそうになる時など、ベッドで待つ「業」のことを考えずにはいられなかった。

「業」は時間の流れで消えてしまうのかもしれない。逆に言えば、今この瞬間に生み出されている「業」と向き合うことが大事なのである。具現化した「業」をそばに置くことで、将来後悔しないような毎日を送れるのかもしれない。

後日先生にも背負ってもらった。
「僕の業はね、学生の人生を(良い方向に)狂わせたことだよ」

コメント